110612_35_世界は変えられないし、変わらない

4,5年前になるでしょうか。「チェンジメーカー」「社会起業家」というワードと同時に「世界を変える」「世の中を変える」「社会に変革をもたらす」…そんなワードを掲げながら、各々の活動に打ち込む若者たちに各メディアからスポットが当たりました。

国内でそのアクションの先頭を走っていたリーダーたちは、今では行政と連携したり、そこで意見したり、当時と比べれば、皆さんそれはもう目まぐるしい活躍をされています。更に、当時「ビジネスリソース」などという呼ばれ方をしていた今で言うところの「プロボノ」の人たちにも注目が集まり、これはもしかしたら一過性のブームではなく、プロボノってのは息の長いワードになるのではないか?という期待を抱かせてくれます。

とは言うものの、そんな4,5年前と比べ、実際に世の中は「変わった」のか、そして社会も「変わった」のか…残念ながら、大きな変革は「無かった」とするのが、個人的な見解です。これはNPOだけじゃなく、国内外含め、大きなシステム(国、経済etc.)全般に対して…です。

そりゃNPOでも、細かいところで見れば、NPOの寄付税制の話、ファンドレイズの手法としてソーシャルメディアが注目されている話、当時と比べて改善され、可能性が出てきた要素は幾らでもあるでしょう。しかしながら、僕の立っている国内の”現在地”から周りを見渡すと…

毎年資金繰りやスタッフの募集に頭を抱えるNGO・NPO、団体の後継者が育たず潰れていく小さな組織、依然としてJICAなどにぶら下がらないと一定の資金力の確保がし難いNGOの現状、海外に本部のある大組織の支部ではなく”日本発”のNGOが未だに少ないという事実…注目度も含め、多少は広がってきてはいますが、やはりまだ「NPO」も「社会貢献」一部の人のモノでしかないんだよなぁと。震災の後だって、3ヶ月経った今もそう感じています。

3.11をキッカケに、人生の方向性そのものが変わり、今でも現地で支援活動をしている仲間、友人が僕にもいます。それでも僕は、彼らの善意が「世界を、日本を変えていける」とは思っていません。きっと彼らはそんな事すら考えてもいなくて、何とかしたい一心で、ひたすらこれからも活動し続けるでしょう。それによって助かる命もあれば、他人の人生に大きな影響や可能性を与える事が出きるかもしれない。現に僕はそういう(世界規模から見た場合の)”小さな奇跡”みたいなのは一般的な人よりは、このNPO・NGOに関わる生活の中で見てきました。

ただ、何度も言いますがそれはあくまで「小さな奇跡」であって、「世界を変えること」ではありません。

貧困・差別・紛争・宗教・病気・権利・環境…名目上「世界」という単位で、国連という大きなシステムも含め我々人間が取り組んできたそれらが、果たしてどのくらい「世界を変える」ことが、良くすることが出来たのでしょうか。こたえは明らかだと思います。

だから、僕自身は「世界を変えること」と「自分の命において、その周りに小さな奇跡や可能性を示すこと」は別に考えたい。そう思っています。世界の規模から考えたら本当に小さな取り組みだけど、確実に小さな社会を変えてきたNPOが日本には幾つかあるし(例えば島根県の海士町だったり…)、これらかもNPO・NGO団体においてそういう事例が出てくるとは思う。だからこそ、それらのアクションと人類にとっての大きなアクションは別に考えたいな。と。

仮に日本を変革できるようなインパクトを起こせるとして、それは全人類にとっての何%になるのか、それは多くの命が生きる地球上での何%にインパクトを与えられるか。人生をかけて自分が何かに取り組んだとして、そこで仮に10%でも多くの人の人生に影響を与える事が出来たとしたら(←この時点で既にジョブズみたいなレベルですが…)その人はそこで満足できる?それともあと何%変革を起こせれば満足する??…みたいな話になってくるのです。これがまた。

だから、イノベーションていう言葉が好きだったり、世界を変える!ていう意気込みを持っている人ほど、(「変えたい!」って願っている時点で、その人自身は本当の意味で「変えた事がない」人だと思うので)肩の力を抜いて、自分の周りをよーく見渡してみて欲しいです。そして自分が歩いてきた道を、振り返ってみて欲しいなぁ。…何が見えますかね!?

僕の場合は、こんな感じでした。

大切な家族と、仲間と、お世話になった方々と…自分が「ありがとう」を言いたい人たちの存在です。今の自分はその人たちにちゃんと向き合えているだろうか、今まで向き合えて、大切にしてこれただろうか。これからその人たちと共にどんな命を生きてゆきたいか。自分がもし死んでしまったら、その人たちの中にはどんな”自分”が残るのだろうか。

僕が、チェ・ゲバラと同じくらい大好きで、尊敬している人物がランディ・パウシュです。彼はカーネギー・メロン大学の卒業式のスピーチでこう言いました。(パウシュについてはコチラを→http://purupuru-n.com/column/archives/2011/01/06173544.php

「尊敬や栄誉を得るのは勿論良いことですが、仲間うちで心から敬意を持ってもらえる程度で充分ではありませんか。そして自分が尊敬する人から認められることも、すごく栄誉な事だと思います。」

僅かな余命を宣告された彼の、卒業生へ向けた(残される者へ向けた)メッセージの一部です。人はきっと「生きること」を考えたり、「生まれた意味」を考えはじめたとき、きっと「誰かの役に立ちたい」とか「自分の命を意味あるものにしたい」と思うのかもしれません。ある哲学者の先生に「命や人生に意味なんてない」などと、一蹴されたこともありますがw僕もその「意味」を考えまています。

更には、自分の命だけでなく、他人の、日本の、世界の人々の命に思いが向いたとき、多くの若者たちは我々含め民主主義や過去の歴史が作り上げてきた「大きなシステム」と対峙することになります。更にその延長線上で、自分たちの身の回りのシステムに対しても矛盾、不正、差別…様々な問題と向き合うことになります。ここまできて「何かを変えたい」「変革を起こしたい」と立ち上がる勇気は素晴らしいのですが、既に書いたように、勇気や思いでは、この巨大なシステムの1%も変えることはできません。やはり、現実的には1人の人間が変えられる範囲は決まっており、それは決して世界を変える規模ではない。という事なのですよね。

でも逆に言えば、自分の周り、ごく小さな範囲を見渡せばどうでしょう?もしかしたら、自分が普通に生きているだけで、周りに影響を与えているかもしれないですよね(この地球で自分が生きていると言うだけで)。だからこそ、ドンキホーテの話のように、いつしか絶望して帰ってくるのではなく、すぐそこにいてくれる家族や仲間や恩人たちに感謝し、共に笑顔で生きていけるような…そこからはじめるべきだと思うのです。それで十分じゃないですかね?

僕の大好きなチェ・ゲバラですら世界は変えられなかった。到底自分の命では完結できないであろう”帝国主義”という目に見えない巨大なシステムに立ち向かい、そして志半ばでその生涯を終えてしまったのです。彼の思いは共に戦った仲間、家族、キューバ、アルゼンチンをはじめとした中南米の国の人々、多くの「命」によって伝えられ、今も尚継承されていますが、結局は世界は変わらなかった。

だから、何度も言うけど、世界を変える!などという意気込みをもって無駄な時間をすごすのではなく、自分の身の回りにいる人、すぐそこにいる大切な存在を大切にしましょう。不特定多数へ向けた変革よりも、まずは自分と繋がりがある環境で小さな変化を起こせるかどうか。すぐ横にいる誰かを大切に出来ない人に、海の向こうの人たちの痛みなんか感じることが出来るわけないのですから。今自分は強く、そう思っています。だからこそ僕は「世界を変える!」なんて絶対に言わない。でも、「何かの為に生きる」のなら、すごく良いと思う。その「想い」は伝わるし、それこそ世界へ向けて伝播しゆくものだと思うから。


※まぁこの類の話は「頑張れ!」って言っちゃだめとか、「死」という言葉を簡単に使うな的な話と近いものがあるのかもしれませんね。…と書き終えてふと思ったり。

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