110605_033_ポル・ポトとカンボジア

以前から「blogに書こう」と言っていて先延ばしになっていたこのエントリ。現在、朝の4時50分ですが…書きはじめます。そういえばパレスチナについてもまだ書けていなかったな…。

「(お前らを)生かしておいても何の得にもならない。(お前らを)失っても何の損にもならない」

これは当時のポル・ポト派幹部の言葉。カンボジアでは1975年~約3年間の間に100万人~300万人の方が殺されるジェノサイドが起きました。当時のカンボジアは600万人ほどの人口だったので、多くみると国民の半分、少なくみても6分の1の人口を失ったことになります。

その中心人物とされるのが「ポル・ポト」。本名はサロト・サル…王室に関連する家系なのに貧しい農民出身を装うため本名を隠したと言われてます。若い頃に仏に留学→マルクス主義と出会い→仏共産党に入党。帰国後は高等中学の先生になる…が→カンボジア共産党に入りゲリラの道へ。毛沢東の時代、文化大革命時に中国に滞在、それが原始共産制のベースになったとも言われています。

それではまず、これらの事件が起こった背景から簡単に振り返ります。ベトナム戦争当時、カンボジアはシアヌーク殿下によって治められ、政策としては「共産主義ベトナム」に賛成はしないものの、国の存続を優先し、北ベトナム軍がホーチミンを経由して(一旦カンボジア領内に侵入して)南側に安全に物資を運ぶ(=カンボジア領内に米国は手を出せない)という「ホーチミン・ルート」を黙認。「好きではない共産主義<<国の存続」の選択に批判が飛ぶ中、1970年に米国CIAがカンボジア政府幹部をそそのかし、反対派をつくり→クーデター。シアヌーク殿下はモスクワ訪問中でしたが、その後中国の全面支援を受け北京へ。そこから反対派のTOPであるロン・ノル首相へのカウンターとして、農村部の市民をゲリラとして味方につけ、北ベトナムの支援も受けつつ、シアヌーク殿下が攻めます。この時の活動の中心だったのがポル・ポト(が率いるカンボジア共産党)。

当時、カンボジア東部も爆撃を受け(北ベトナムの基地があった)、それによりカンボジアで多数の死者(50万人と言われる)→農村部の市民がゲリラ活動へ身を投じる…という流れが起こります。結果的に、米国の仕掛けた戦争(ベトナム戦争)が原因でカンボジアのゲリラが増えるという何ともいえない結果になってしまいました。

1975年4月17日。ポルポトの指揮する軍隊によりロン・ノル政権が崩壊。南ベトナム崩壊のタイミングと同時期にカンボジアも共産党の支配下に。「戦争が終わった」…と思いきや、ポルポトはその直後に市民をいっせいに首都から追い出しはじめ、抵抗するものは全て殺されてしまいました。「自分ら農村のゲリラが命がけで戦った」事に対し、「都市部へ逃げた人間たち」の事がポルポトをはじめ軍の人間には許せなかった…のだそうです。

そして、この日からカンボジア国内で人々は「旧」「新」の住民に分けられます。「旧住民」とされたのはポルポトの軍が支配していた農村部に住んでいた住民で、いわゆる「国民」としての扱いを受けます。そして都市部へ逃げた住民は全て「新住民」とされ全ての権利を剥奪されます。それと共にシアヌーク殿下も幽閉されてしまい、完全なるポルポト体制が固まります。これがカンボジアのジェノサイドのはじまりです。(因みに冒頭のセリフはポルポト派幹部が”新住民”に対して放ったものです。

知識人は全て殺され、貨幣廃止、宗教禁止、寺院破壊、学校・病院の廃止、国民全員が共同農場へ所属、そこで取れたものは全て国のものとなり、何か反論するとその場で処刑。なぜこんな事をしたのか。それを少しでも理解するためにポルポトが目指したと言われている「原始共産制」について少し触れておきます。

原始共産制…あらゆる生産手段を共有、生産されたものを平等に分配される社会(原始時代ってこういう平等な社会だったよね…という推測のもと)。本来の共産主義が高度な生産性に支えられたものであるのに対し、自給自足を”肉体労働のみ”で行う原始共産制は「生産性が低いので上下の格差なく全員が肉体労働に従事しなくてはならない」点で”平等である”というのですが、正直実際はかなり問題点の多いものでした。(そもそも、はるか昔にそのような平等な社会が存在していたかは全くの謎…)

カンボジアでは、この原始共産制の考えに基づき、朝から晩まで無理な肉体労働で農作業、ダムや井戸の工事が行われ、多くの人が倒れていきました。中でも新住民の人に関しては一切の手助けが受けられず、病気になっても何もしてもらえず、最終的には動けなくなった時点で殺されてしまう…という想像を絶する状況が繰り広げられたといいます。

農業政策の経験者がいないポルポト政権が、無理な農業政策を「愛国心があれば何でも出来る」と、某大躍進政策をならって推し進めた結果、当然ながらカンボジア全土に飢餓が広がりました。この間、ポルポトは仮想の敵を作り上げては「すべてがうまくいかないのは敵がいるせいだ」と決めつけ、身内の幹部でさえも粛清(処刑)していきました。こうして、ポルポト政権樹立時の13人の幹部のうち、5人が殺されました。(まるでソ連のスターリンを見ているようですね)

そしてこのタイミングで、政権樹立時に支援を受けた北ベトナムをポルポトは敵視しはじめます。というのも、カンボジア・ラオスは元々、仏に植民地支配されていたにもかかわらず、仏がベトナムを使って間接的に支配(植民地支配の国が良く使う手法。怒りのベクトルをそらす。)していたので、ポルポトはこの背景を利用して「ベトナムへの攻撃」を計画。これにより国内の意識の統一を…と思ったら攻撃した後にあっさりベトナムから反撃を食らい、その後わずか2週間でポルポト政権は崩壊。ポルポト自身はジャングルへ逃げ込み、死ぬまでジャングルでゲリラ生活を送りました。

カンボジアへ侵攻したベトナムの判断には(ベトナム戦争から時間が経っていないことと、他国への侵攻という点で)批判もあったものの、カンボジアの当時の状況が分かるにつれ、世論も変わってきたと言います(ベトナム軍はこれら一連の戦闘で5万人死亡とされている)。ちなみに当時は、道の端を掘り返すだけでも骨が出てきた…状況だったという話もあります。それくらい、ジェノサイドのもたらした影響は深刻なものでした。

ジャングルに逃げたポルポトを、その後支援し、武器を流していたのは中国。更に、国境付近をウロチョロするのを黙認していたのはタイです。中国は、当時のソ連とベトナムの関係が気に食わず、タイは「アジアでのベトナムの影響力拡大に対して云々…」という理由で両国ともジェノサイドについては何もお咎めなしでの対応でした。そして、ポルポトはその生涯をジャングルの中で終えた…そうです。

今も、カンボジアには地雷が残っていますし、ポルポト政権時代のジェノサイドの爪痕がいたるところに見られます。とりわけ、教育・雇用の部分は致命的な印象があり、多くのNGO・NPOが活動してはいるものの、諸問題の解決については中々目処がつかない、糸口が見つからないという声も少なくありません。

僕自身は、直接現地で活動して…という事は今はしていませんが、カンボジアの話をする際に、どうしても「ポルポト」だけが全ての根源のように扱われることに違和感を感じています。こうして、ちょっとだけ背景を押さえるだけでも、ポルポト以前に「アメリカは?」もしくは、そもそもの植民地支配を考えれば「フランスは?」、ポルポト政権崩壊後の事を考えれば「中国は?」「タイは?」と。更には、本当の悲しみの根源を突き詰めていくと「帝国主義」という大きなものにぶつかります。

ポルポトは、スターリン、毛沢東らとの共通点があります(政策などで失敗している部分含め)。我々がこうした歴史的背景から学ぶべきことは、今後考えるべきことは、この国にすべきことは…自分なりに考え、出来る部分については行動に移していきたいと思います。しかしながら、農村から立ち上がり、命がけで戦闘を繰り返し、首都を奪還したポルポトらがそこにいた市民(後に新住民と呼ばれる人たち)に抱いた”怒り”について、その全てを批判することは出来るのでしょうか。僕の中で、実はまだその部分のこたえが出ていません。こういった、自分の中でこたえが出ていない多くの事柄についても、また今後、このブログを通して考えていきたいと思います。

というわけで今回はここまで。

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